「いつくしみの光」 自分自身への思いやり、温かさは世界へ広がる

レイキヒーリング&オーラソーマ☆ 大阪市北区のヒーリングサロンVIDAMOR(ヴィダモール) 代表・尾崎友美のブログ  

2024年06月



その後、私は26歳からの1年程度の間
ロンドンに語学留学していました。



毎日が充実して最高だったな!

今でも思い出すと幸せです。



勉強も一杯して、

旅行も一杯して、

芸術にもたくさん触れて

国籍や年齢、職業等関係なく

仲間たちと過ごした1年間は

かけがえのない私の財産です。




自分の細胞の中に確実に刻み込まれた

ヨーロッパ時代




私の人生に大きな影響を与えたと

改めて思います。




ロンドンで同じ語学学校にいた

コロンビア人(スペイン語圏)の建築デザイナー

のボーイフレンドが出来て、



その彼が、英語を学んだ後、

スペインで仕事をするのが夢だったんです。




それで、私もスペインに行きたくて、

彼の後を追ってマドリッドへ行きました。




もう30年以上昔の話だし、

あの時、何と父親に説明したのかを

全く覚えてない・・・・



父に心配かけるなあ

という思いより



多分何十倍も彼と一緒に

居たいという思いが勝ってたんだと

思う。







ロンドンのデパート ハロッズでその彼が撮ってくれた写真

私、27歳!!




なんか、可愛いなあ・・・・(笑)





じつは、スペイン時代の写真が一枚も見当たらなくて・・・

とても残念です。




とにかく・・・



マドリッドにスペイン語留学と言う名目で

(もちろん勉強しました!)

行って、彼が同郷の建築デザイナーの

友人とシェアしてるアパートメントに私も

同居することになりました。





当時、彼とは英語で会話していて、

私はマドリッド市内で語学学校に
入りスペイン語を学び始めました。





語学学校で毎日5時間位授業を受けて、

帰宅して3時間位勉強してたと思います。




マドリッドはスペインの首都

当時はまだEUじゃなくて

通貨は「ペセタ!!」




私が最初の頃、一番怖かったことは・・・




家から一歩出たら、私がアジア系でも関係なく

スペインの人達って色々話しかけてくる!!!



「今何時?」とか、


「ライター持ってる?」とか、



「○○はどこかわかる?」とか、




それがもう怖くて怖くて・・・・




話しかけられて理解できるかな

ちゃんと答えられるかな

って不安でいっぱいになって



「私に声を掛けないで!!!」



と思ったことも何度もありました




だから余計に必死で勉強したんだけど、

勉強はどんどん進んだけど、


会話が出来ない!!!




ロンドンで英語を学びだした時とは

違って、とにかく不安がいっぱいだった。






学校で5時間位

自宅で3時間位

そして移動中はヘッドホンで

スペイン語の教材を音声で聞く




もちろん帰宅したらテレビは

スペイン語だし・・・・




そうやって、3ヶ月と少しが経過した頃、



いきなりスペイン語の単語が私の口から

溢れ出るようにして出だして・・・




「え~私話せるやん!!」ってほんとに驚きました。



それからは、スペイン語で会話するのが楽しくて仕方がなくて、

スペイン語が大好きになったんです。






そしてその頃は、スペインの人が話す言葉も日常会話レベルは

わりとわかるようになっていたように記憶してます。


わからないところはボーイフレンドにサポートしてもらって

暮らしていました。





その後は、

日本人の社長の貿易関係の会社でお仕事

が見つかり就職をして、マドリッドには2年半~

3年近く住んでいたかな。





ボーイフレンドが建築の仕事をしていた

関係で、私はこの時期に思い切りヨーロッパの

芸術を堪能する事が出来ました。





彼と二人でヨーロッパを旅して

有名建築を見て歩いたり、美術館めぐりをしたりしました。



オーストリア

ベルギー

フランス

ポルトガル

イタリア



ゆっくり時間をかけて街を堪能する旅をしました。

写真がなくて残念です。




絵画を見てよく私は彼に

「理解できないわ~」と言ってました。



そのたびに彼は

「理解しなくていいよ、感じるだけでOK」って

言ってたのを今もよく覚えています。



「捉え方に答えはない

自分が感じた事を素直に受け取る!」





彼からこんな学びをさせてもらっていたことを思い返すと

今でも感謝の気持ちで一杯になります。






彼は優しい人でしたが、

私と同じようにとても繊細な人でしたので、

繊細な者同士で、時々互いに気を回し

過ぎて分かり合えなかったりもしました。





当時、私たちはスペインでは二人とも

「外国人」でしたから、お互いに

それなりに色々苦労や悩みもありました。






でも、何度か二人で話し合い、

「やっぱり結婚したいよね」って

言っていたのですが、




結婚したいと強く思う反面、
何となく違和感のようなものも感じていたと

思います。





でも当時はその感覚がどういう種類の

ものなのか、わからなくて、困惑して

いたのを覚えています。





この時の感覚はきっと

「彼との結婚は進むべき道ではない」

という直観だったのだという事が、

今は確信が持てます。





いえ、当時からわかっていたのかも

しれません。




ただ、好きな気持ちが勝っていて

わざと自分の直観を封じ込めたのだと

思います。



若くて勢いがある時の恋愛は、

自分自身が無理をしていても

気付かない事がありますよね。






こんな風に、ボーイフレンドの事で何となく

もやもやした気持ちを抱えて、悩みながら

暮らしていた私ですが、




31歳になってすぐ、

日本に帰国しないといけなくなる出来事が

起こりました。






続きはまた私のストーリー7で!!



最後までお付き合い

ありがとうございます。





YUMI




























中学時代は母が他界し

父の愛人だったKさんと同居しなければ

ならなくなりました。


Kさんが出ていった後、高校時代の私は、父に対する怒りと

母が居なくなった寂しさを心の奥深くに仕舞い込み

毎日をすごしていました。




高校三年生の夏休みに、私はアルバイトを

探していました。



いつもよく通っていたショッピングモールのような

ところにある、和菓子屋さんにアルバイト募集の

貼り紙を見つけて、すぐに履歴書を書いて持参

した私。。。



男性の店長さんに面接して頂き、

雇って頂く事になったんです。




研修を受けた後、私が配属になったのは

少し離れた店舗でした。




店長は40代前半の女性

副店長は35歳位の男性

女性の店員さんが一人(20代後半位)


そして、アルバイトの私

合計4人でした。





店長さんは気が強そうで

(メイクもきつかった・・・)

はきはきしていて、怖い印象でした。



副店長は穏やかなおっとりした人でした。




最初の1週間位、仕事を一生懸命に覚えて、

店長やほかの人たちの様子を見ていました。




ランチの時間前になると店長はいつも

自分のポットにコーヒー用のお湯を入れる為、

遠くにあった給湯室まで行っていました。





仕事に少しだけ馴れた頃に私は店長に


「店長、良かったら、ポットにお湯入れてきましょうか?」

と聞きました。

特に何か考えて尋ねたわけではなく、勝手に口から飛び出した
提案でした・・・


こういうのが、天の導きなのでしょうね・・・感謝




私の提案に店長は一瞬考えた後、少しだけ微笑んで

「え、行ってきてくれるの? じゃあお願いしてもいいかな?」

と言いました。




私は「はい、行ってきます」と行ってお湯を入れに行き・・・



それからは店長のポットのお湯は私の担当となりました。





そのお湯の一件以降、店長は私にすごく色々な

話をしてくれるようになりました。




そして、店長は自分が不倫をしていて

家庭のある男性とお付き合いをしている事



その男性の事が好きで好きで仕方ない

のだけれど、どうする事も出来なくて、

会えない時はつらくてしかたがない事



奥さんに対して嫉妬が激しい事



その不倫の相手が同じ会社の役員さんである事



を話したのです。




高校3年生ですよ、私・・・・





店長は強がって生きていたけれど、

寂しくて仕方なかったんです。





アルバイト先で私は

「愛人として生きていた店長の苦悩を聴く」

という役割と出会い、話を聞くたびに父の

愛人だったKさんと重ねていきました。




今から思えば・・・・

店長と話す事で、父の愛人だったKさんを

「多面的に理解する」という学びをしていた

と思います。



そして、その学びを通して、私自身の心の闇を

少しずつ溶かしていけたのではないかな・・・




天からはまるで

「はい、次の学びの機会ですよ、終わったら

レポート提出してね」とでも言われていたのかも

しれませんね・・・・




私は店長を批判するでも、肯定するでもなく

ひたすら話を聴きました。




カウンセリングでいう「傾聴」です。




店長だって、高3の私に答えなんて求めてなかったはず。



ただ気持ちに寄り添って欲しかったんだと思います。





あの時の事をじっくり思い返してみると

愛人でいる店長に対する自分の感情って

本当になくて、



ただありのままの店長が居ただけで、

善も悪も、好きも嫌いもなかったように思います。





店長はそんな風にして話して気持ちを安定させる術
を知っていたから良かった。



知らない人なら、自分だけで苦しみと寂しさに
耐えなければならない。






ところで・・・

皆さんは今、嫌いな人がいますか?



もしいたら、少しだけ想像してみて下さい。

その人と別の出会い方をしてたとしたら

どうかな?って・・・・




その想像の先にほんの少しの思いやりが

芽生えたなら、たとえ言葉にできなかったとしても

それが「愛のエネルギー」ではないでしょうか?





嫌いな人にも愛を向けていく事は

可能だと私は信じています。



そうやっていくと、

嫌いな人自体がいなくなります。





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高校三年生の時の親友との四国旅行にて
妊娠していませんよ笑


ではまた次の私のストーリーで!!





YUMI









母は父の浮気に悩んだ末に、

胃癌になり、私が13歳で亡くなりました。



母は47歳でした。



これはわかってくださる方も多いと思うのですが、

「自分自身が親の年齢を超える」

というのは、不思議な感覚があります。


でも、気持ちの上では親子は永遠に親子ですね。




母の1周忌が過ぎてすぐに、父が私に言いました。


「ここでK(父の愛人)も一緒に暮らしたいんやけど

どうかな?」



私はKさんには会った事も話したこともなかったように

記憶してますが・・・



私は父に泣きながら言いました。



「好きにしたらいいやん、
だけどお父さんが私のお母さんを

殺したんやで、それだけは覚えといて。

私はお父さんを一生
許さないから」





私の訴えも空しく・・・・

間もなくKさんはうちの家に引っ越してきました。




Kさんはそれなりに私と兄に気遣いを
していたようには見えました。



私は、Kさんが時々父に泣きながら文句を言ってた

のを目撃していました。



原因は父が私や兄の言う事ばかり聞いて、自分の

事をないがしろにしている・・・という風な内容でした。




今から思うと、父も大変だったでしょうね・・・


兄は高校生、私は中学生

こんな思春期の二人のところに愛人を連れてきて

一緒に住むとは・・・・

父は本当にそれを望んだのだろうか・・・
そんな疑問も湧いてきます。




全員にとってストレスの多い生活が

長く続くわけはありません。




1年位でKさんは「こんな家の敷居は2度と

またがないから!!」と捨て台詞を吐いて

出て行きました。



(その後、4~5年位は父とKさんの関係は
続いていたようでした)



Kさんは元々美容師だったそうです。

でも父と出会ってからは、父に経済的な

援助を受けて仕事をやめて優雅に暮らして

いたと聞きました。


Kさんは自分のキャリアより父の愛人という
立場を選んだことになります・・・




私は中学生なりに思いました。





「男性や男性のお金に左右される生き方はあかん!」


と・・・・



Kさんはその後、私の父とも別れて、

住みこみのお手伝いさんになっていました。




今となればね・・・

父の人生に思いを馳せるのは当たり前ですが、



Kさんの人生にも思いを馳せて

Kさんの苦悩や、感情を思ったりします。



愛するということは、誰かから何かを奪う事でしょうか?



本当の愛とは何だろう?


この頃から私の「愛」に対する探求が始まっていた・・


そんな風に思う今・・・


父にも、Kさんにも大切な生きざまを見せてもらい
有難く感じています。





そんな色々な事を感じながらも・・・


高校を卒業する直前に親友と行った四国旅行中の私↑




ではまた「私のストーリー vol5」に続きます!


最後まで読んでくださった皆さんに感謝致します。





YUMI










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父と私


この写真多分私が5歳くらいですが、

この頃から実は私は父の事が苦手でした。



そして、小学校高学年の頃には

大嫌いになってました。




理由は色々ありましたけれど、

やっぱり一番の原因は

私の最愛の母を苦しめていたから
だったと思います。


父を嫌いだったから出来るだけ避けて

生活していた私ですが、母が亡くなってからは、
さらに大嫌いになりました・・・



それでも片親になったので、前に比べたら
どうしても会話は増えて、いやいや接していた
自分がいました。



昼夜関係なく仕事に猛進していた父で、

母と不仲だった為、家の中ではまるで敵の
ようにさえ感じる事がありました。



今から思えば、父の立場からすれば、どんどん家に

居場所がなくなって、愛人宅の方が居心地

が良くなっていったのでしょうね・・・




私は根本的な父に対する怒り(父=母の命を

短くした原因を作った人)をずっと自分の

奥深くに仕舞い込み、中学~高校時代を

過ごしたからか、楽しい思い出があまり
ありません・・・





経済的にはなんでも手に入る生活でも

心の中は闇に支配されていたのでしょうね・・・




今だからはっきりと言える事があります。
それは・・・



心の闇はあまり長く抱え込まないほうが良い
という事です。


これは、本当に重要な事です。

なぜなら、長年抱え持つ心の闇は
心身のバランスを崩していくからです。




それは今日まで様々な経験を自らしてきた

から、体感としてわかるし、誰にでも当てはまる
と思います。



ですから、奥深くしまい込んだ心の闇は1日も早く

取り出して、しっかり見て、少しずつでも良いから
丁寧に解放し、手放していってほしいと思います。




身体や心がしんどくなって、

耐えられなくなる日が

来る前に・・・・





私自身にとっては大嫌いな父でしたが、

仕事では多くの人に信頼され、頼られていて

父の会社で会う父は別人でした。




父にしかできない仕事の依頼が多くて

相談の電話も毎日何件も掛かってきて

次々問題を解決している姿を見ると

嫌いな父でも、誇らしく思えました。




人間の人生ってね、

とても不思議だと思います。




なぜって父は夫の浮気に悩む妻たちの

大きな支えとなり、問題を解決する為に

奔走していましたから・・・




それに、子供の家出や非行問題で悩むご両親も

多く相談に来られていたので、相談に乗り、

家出した子供たちを両親の元に戻し、

家庭内の問題を解決する為に365日

休みなく働いていましたから・・・




仕事では解決できることも

自分の家族の問題は仕事と同じようには

いかなかったのでしょうね。


今になってみれば、父の苦悩がわかる気が

します。




 親の事はいくら憎んでも、自分の細胞の中に

親から受け継いだDNAが刻み込まれてますから
どうしようもありません。




だから親が嫌いだからって逃げ続けていたら

それは自分からも逃げてるのと同じですよね。




親も子も平等です。


どちらもそれぞれの人生の学びをしている生徒

なんです。




欠点もあるし、時には理不尽なこともあるかもしれません。




私の人生は、父を心から許し受け容れる事で

流れが変わり始めたのを今もよく覚えています。




それは、父が変わったからではありません




私自身が変わったからです。

  (変わるように導かれたからです)




私は、自分自身と真剣に向き合う
プロセスを通して、父を許すことが
できました。


「父を許す!」
と思い何かをした訳ではありません・・・



ただひたすら自分自身の本心
と向き合っただけです。






父は14年前に他界したのですが・・・
父が他界してからの方が、父の人生を、
父の生き方を理解してきた気がしています。



私は「人は死んでも、魂は死なない」という
事を完全に信じている人間です。



もしかすると・・・・


私が「魂は死なない」という事を完全に信じ切って
いるからこそ、父から今も深いメッセージを受け取り
日々繋がりを感じ、愛を感じられているかもしれない
なあと思うと、自分自身が歩んできた人生全ての過程
に感謝の念が湧き出てきます。



結局・・・


命あるものは、全て魂の存在なのですよね・・・



纏っている肉体や、ましては、身に着けているもの、
言葉・・・それらに惑わされてはもったいないように
感じます。



魂の本質を見抜き、魂同士の交流が出来る事が
私にとってなによりの幸せなのだと感じています。


それでは続きはまたVOL4に書きますね。




YUMI

























私の母は、私が13歳の秋に
他界しました。



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母と私(私、寝起きなのか?・・・)






母はとても繊細で、几帳面で

躾には厳しい面もありました。





私が5歳の時くらいから

母は時々家出していました。



家出というか、朝まで帰らなかった・・・



翌朝、私が幼稚園に行く時間ぎりぎりに帰ってきて

私が歪んだまま無理やり履いたタイツを
きちんと履かせてくれたのを今もはっきり覚えています。


そんな時、母はいつも泣いていました。




幼稚園児だった私には理由がわからなかった
のですが、両親の不仲は父の浮気が原因でした。





私は小学校低学年になると、

母が悩んでいるのがわかりました。



母が家を出たいと思っている事も

何となくわかりました。



4歳年上の兄がいたけれど、7才位だった私は、

なぜかわかりませんが



「母の事は私が守らなければならない」





という使命感を持つようになっていました。




小学生が使命感を持ったところで

出来る事なんて特になかったはずですが・・


いまだになぜ自分がそんな風に感じたかは

わかりません。





小学校4年生の秋

夕方、母と台所に居た私に

母が聞きました。




母は雨戸を閉めて、

窓を閉めて

カーテンを引き



「ねえ、ゆみちゃん、

人間ってなんで生きてると思う?


毎朝毎晩同じ事の繰り返しで、

一体何のために生きてるんだろうね?」








私はただ黙って聞いていたのを

覚えています。



答えなんてみつからなかった・・・




でも、あの時母が私に放った問いは

まるごとそのまんま私の毎日のエネルギー源

になっています。




人は何のために生まれて

何のために生きるのか?



私は何のために毎日こうして存在して

いるのか?



ずっと自問自答してきました。




人はひとりひとり違います

みんなそれぞれの生い立ちがあり

それぞれの性質があり

それぞれのストーリーがあります



人と同じなんて有り得ない!




母が私に遺してくれたこの大きな

問いかけのお陰で、私は今日まで

こられたのかもしれないなあと
感じる時があります・・・



不思議なものです。





父の浮気で苦しみ続けた母は

3年ほどの闘病の末に

私が中学1年生の秋に47歳で
胃癌により他界しました。




私が母と過ごした時間は13年間でした。


そう思うと、懐かしい気持ちと、あの時の
幼い私を抱きしめてあげたい気持ちが
こみ上げて涙がこぼれます。


母と別れてから、もう47年という歳月が流れました。
(肉体的には・・・)



母が私に「人間は死んでも終わらない」という事を
教えてくれたので、私は私なりの方法で母との交流を
続けて、多くの大切な事を学んでいるので、本当に
感謝の気持ちでいっぱいです。



それでは続きはまた次回書きますね。ハート




YUMI

























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