「いつくしみの光」 自分自身への思いやり、温かさは世界へ広がる

レイキヒーリング&オーラソーマ☆ 大阪市北区のヒーリングサロンVIDAMOR(ヴィダモール) 代表・尾崎友美のブログ  

カテゴリ: 私のストーリー


人生の道程には、これまで自分が
積み重ねてきたものをリセットする
タイミングがやってくることがあります。



リセットにも大きく分けて2種類あるなあ
と、私は個人的に思っています。


1つめは

自ら決断して、行動する事で起こすリセット


そして、2つめは

自分の意志とは関係なく、起こるリセット
「強制終了」がかかる・・・



私が闘病で体験したリセットは、
まさに「強制終了」だったと思います。


何か、見えない力によって、ぐっと思い切り
「軌道修正」させられた・・・


悪性腫瘍によって・・・

(これは、あくまでも私の経験です・・・
私の、私に関する感覚です。)


1年3か月の入院生活の間に
予定していた抗がん剤治療12回を
なんとか終える事が出来て、無事に
退院しました。


退院後は、自宅療養をしながら、
体力の回復に努めていました。


とにかく、抵抗力も体力もかなり落ちて、
1度、人の多い場所に外出すると、疲労が
すごくて、回復に3日程の時間を要しました。


主治医の先生からも
「まずは、近所の散歩からやで~」
と言われていたし、何となく

自分の人生は自分がコントロールするものではない

という感じがあったので、焦りはなかったです。
もう全てを天にお任せした・・・


スペインからずっと私を応援してくれていた
ボーイフレンドが、退院の日に「退院おめでとう」
と電話をくれました。


そして・・・その日に、正式にお別れをしました。


正直、辛かったのですが、サバサバした気持ちも
あって・・・

私であって、私ではない、別の存在のパワーが
すごくて・・・私はただ、そのパワーに守られ
人生の再スタートを切りました。


守護して下さる目には見えない力の強さと
深さと、無償の愛を感じました。

人生は、自分のものであって、実はそうでは
ないかもしれない・・・

もっと宇宙レベルに壮大で、その中で生きる
自分という存在が、愛おしく、未来に期待が
持てたのです。

それから長い年月を経て、私もそれなりに
色々な経験を積み重ねて、今振り返ると
私がどれ程に守られ、導かれてきたかが
手に取るようにわかって、そんな思いの中に
いる時、天からの祝福のキラキラしたエネルギー
で包まれます。

もし今、人生のリセット、強制終了の
真っ最中の方が居られたなら、その時を味わい尽くして
欲しいとお伝えしたい・・・
あなたは必ず大丈夫なのだから・・・

退院してから1年位経った時、スペインの彼から
結婚した事の報告がありました。

そして、その1年後に私も結婚をしました。

結婚をお互いに報告し合い、お互いに祝福出来た事は
スペインの彼のお陰だったと思います。


では、また続きは次の時に書きますね。


最後までお読み頂いた皆さんに感謝致します。

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YUMI







当初、主治医から受けていた説明では、
抗がん剤治療は月に1回で、
その治療を6回続けるとの事でした。


抗がん剤の副作用は多岐に渡って

出ていました。

血尿が出たり、

身体も顔も浮腫んで、

髪の毛は当然ですが、体毛が全て
抜け落ちました。

他にも、ヘルぺスや口内炎等々
薬の影響は体中に出ていました。

中でも、全身の倦怠感はすごくて、
どうしても午前中に起きる事が出来ず
毎日、正午前まで寝ていました。


消灯時間を過ぎると、突然孤独が

襲ってくる事が時々ありました。


副作用で醜くなってしまった自分が

哀れて悲しかった。
まだ31歳でしたから・・・
無理もなかったのかもしれません。


ある夜、消灯から少しして

私はそっと16階の病室を抜け出して、

1階の広い外来に降りて行きました。



かなり広い1階の外来は電気が消されて
暗くて、広くて、きっとベッドの上に
いるより落ち着きそう・・・

と思い、1階に降りていきました。



1階は私の想像とは違って

パジャマのままで1階を大きく何周も
何周も早歩きしている人たちがいました。



糖尿病の人や、足を鍛えたい人

みんな歩くことに集中していた



歩いている人たちを見て

「私も負けてなるものか、必ず

病を克服する!」そう素直に思いました。



暗闇の中、パジャマで早歩きしている

人たちは、入院中とは思えない位に
パワーがありました。

エネルギーフィールドの原点に火が
着いた! そんな感じのエネルギーでした。


「私も自分の動く足に感謝して歩こう」と決めて

それから毎晩30分、1階に歩きに行きました。


でも、抗がん剤の回を増す毎に、

副作用で朝は本当に起きるのが

辛かったのをよく覚えています。



お昼ご飯を食べてからは、ベッドの上で

スペイン語の試験勉強をしました。



元気になったら、日本で受けられる
スペイン語の検定を受けようと目標を掲げて、
毎日数時間勉強しました。



闘病中、スペイン語にとても助けられました。

好きな語学であるスペイン語をもう一度、
愛情を込めて学ぶことの楽しさを味わえたのです。



そして夜のウォーキングの後は寝たままで行う

瞑想をしたり、身体をリラックスさせるストレッチ
をしたりしていました。

心が折れそうになるので、「今、入院中の私にも
出来る事」にフォーカスをして、とにかくやれる
事を実践しました。



そんな状況のある時、
「朝も頑張れば8時に起きられるかもしれない、
  やってみよう!」と思い立ちました。



翌日、何とか8時に起きることが出来て、

身体はしんどいけど、しんどさを遥かに
超える満足感で幸せを感じました。



きちんと朝ごはんを時間通りに食べた私は

早起き成功が嬉しすぎて、地下にある売店に
買い物に行こうと思いつきました。




16階からいつも通りエレベーターに乗り
地下に向かいました。


まだ朝早くてエレベーターは空いてました。


途中の階でエレベーターが止まって、

入院中と思われる年配の女性が乗ってきました。



年配の女性が来ていたTシャツの文字が私の

目の中に飛び込んできました。


A QUIEN MADRUGA,

DIOS LE AYUDA


スペイン語です。

直訳すると、


「早起きするものを、神は救う」


日本語的に訳すと

「早起きは三文の徳」

となります。


私は一瞬、何が起こったのか?

何を見たのか?わからなくなる位
驚きました。

あの時、病院の中で、あのおばさん
のTシャツの文字の意味を理解したのは
おそらく私だけだったでしょう・・・


神様?
天国のお母さん?
からのメッセージ?

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私が、頑張って早起きしたのを知っていたの?

私がスペイン語が理解出来て、スペイン語
の勉強を一生懸命しているのをどこかから
見ていたの?

「私を守護して下さる存在が、いつも
 近くにいて下さるのだ・・・」

と気づくと同時に、天から降り注ぐ守護と
愛のエネルギー
が私の身体の隅々から、
私の魂の深みまで届き、
感動で震えた朝でした。



私は闘病中のこのシンクロニシティや、

様々な出来事を通して、目に見えない
大いなる存在、グレートサムシング、
神様、守護天使様・・・呼び方が何であれ
そのような存在が間違いなくおられて、
守護し、導いて下さっている・・・
そう確信しました。



苦しい中でも穏やかに過ごせた闘病生活
を思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。



ではまた次の私のストーリーで!


最後までお読み頂きありがとうございます。








  






















私が受けた抗がん剤治療は月に1回のペースで、全部で12回受けました。
そして並行して、放射線治療も28回受けました。

ご存知の方も多いと思いますが、抗がん剤治療中は、血液検査を頻繁にして、白血球の数値や、赤血球の数値をよく観察して、白血球があまりにも下がりすぎたら、無菌室に入る場合もあります。

私も何度か無菌室に行かなければならない位に白血球がさがった事もあり、回を重ねる度に身体のダメージを痛感していました。

毎月めぐってくる抗がん剤治療の1週間があまりにも辛すぎたので、

治療と治療の間の比較的体調が良い時期(だいたい2週間位)は私にとって「天国」でした。

ごはんをおいしく食べられること
16階の病室から地下の売店まで歩いて買物に行けること
テレビが楽しめること
本が好きなだけ読めること

日常の暮らしが最高に幸せだった。




この頃に出会った本の中の1冊がこちら

これ、30年前のものですが・・・

カール・サイモントンさんというアメリカのドクターのサイモントン療法というトレーニングと、患者さんの体験談なんかが載ってます。

私は現地に出向いて直接トレーニングに参加した訳では
ありませんが、病室で読んでいくうちに、ぐいぐい
引き込まれていきました。

この本の中に出てくる患者さんの人生と
癌になったストーリーから私は沢山の気づきを
頂きました。

自分の病気と、自分が長年抱えてきた
父親に対する怒りが、私の深いところで
繋がり、影響しあっている・・・
そんな感覚をはっきりと感じ取りました。

身体だけを治療しても完治はないだろう
これは私に天から与えられた、自分自身を
癒す為の機会なのだ

そう確信を持ちました。

この本との出会いをきっかけに私は長年抱えてきた父親に対する怒りと向き合いはじめました。
本を参考にしながら私が始めたワークは

父親のことを自分とおなじように「ひとりの人間として」理解をして、思いやりをもって受け止めていく。
という積み重ねです。

父の幼少期のことや、青年期のこと、
大人になってからのこと、

父が積み重ねてきた人生のストーリーを「私の父」の物語として
ではなく


ひとりの人間の人生の物語として
じっくりと考察し続けました。

すると・・・だんだんと気がつきはじめました。

「父も私と同じひとりの人間で、私に生い立ちがあり、経験してきた事があるように、父にも生い立ちがあって、経験してきた出来事があって今がある」

文章で書くと当たり前で、すごくシンプル
な事ですが、親子関係は近すぎるだけに、
意識的にならなければこういう見方
は出来ないものだと思います。

そうやってどんどん感じていく事が
習慣になっていったとき、いつのまにか私は父の事を「ひとりの
人間」として、父のまるごとを受け止めて
いくようになりました。

そして、そこからさらに気づきがありました。


私の感情の主は私自身である。

という事実。

父の行った行動(浮気)の結果は父の責任であるけれど、その責任は
父のものであって、私のものではない

一方で、



私が持ち続けていた「父を許せない!」という感情は私が自ら選び、持ち続けたものであり、父のものではない

という事・・・


父の行動と、私の感情は当然繋がりがある訳
ですけれども、そこが分かりにくい部分であり、
その混乱が人生を複雑にしていると感じます。


このシンプルな事を、一旦確認し、受け容れて
いくと、不思議ですが、目の前がスッキリして
自分の人生に集中できるようになり、それは
言葉を変えて言うと「人の責任にしない、
自分の人生は基本自己責任である」という
事だと思います。

人間は誰ひとりとして完璧ではありません。失敗も繰り返し、そこから学ぶのですよね。

きっと父は自分がした行動に対して父なりのやり方で精一杯向き合い続けていた
と思います。

そして私は「自分の感情の面倒をしっかり見ようそれがひとりの大人としての責任だ」

そう素直に思い始めました。

すごく心が楽になったのも覚えています。

サイモントン療法が良いかどうか?は正直私にはわかりません。

でも、この本がくれた大きなチャンスに私は感謝をしています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

また次回続きを書きます!


YUMI




























入院して、本格的な検査が始まりました。


そして、1994年12月2日に私の手術は行われました。


手術までの間に、実は右足の鼠径部にも小さな腫瘤が

見つかり、主治医の先生に相談して、右足の太ももの

腫瘍切除と一緒に、鼠径部の腫瘤も切除する事に

なりました。



オペ前の説明では、太ももの腫瘍は坐骨神経から

約2センチ離れている為、何とか坐骨神経は残せそうだと

いう事



そして、成人男性の握りこぶし程度の筋肉を切除する
事になるため、走ることは難しくなるかもしれないこと



正座は出来なくなるかもしれないと言われました。



万が一、坐骨神経を切除しなければ、
腫瘍を取り切れない時は、

右足首は動かなくなる事も・・・



そして、もしも鼠径部の腫瘤が悪性の場合は、

リンパ節転移になるので、大きく予後が
変わってくるとも言われました。



恐怖と不安でいっぱいになりながらも、

どうする事もできない訳で・・・





幸いにも、坐骨神経は残せました。

また、鼠径部の腫瘤は良性で、今のところ

転移はしていないとわかりました。




手術が終わり、数日後には先生が
「手術跡をちゃんと自分で見て、
傷がきれいに回復するように

自分でもケアをしないといけないよ」と

傷跡のケア方法を教えてくれました。



でも、私は長い間、手術跡を見ることが

出来ませんでした。



見るのが怖かったし、傷ついていびつな形になった

太ももを受け入れるには心の準備が必要でした。



そして、まだ傷口を自分で見る事も出来て
いなかった、オペから1週間後に、

一回目の抗がん剤治療は始まりました。



主治医の先生からは月に1度のペースで

6回やります。と説明を受けてました。



化学療法をしなければ、確実に再発すると

言われていたし、やる以外に選択肢はあり

ませんでした。




私の受けた抗がん剤治療は、それはそれは

厳しいものでした。

(抗がん剤治療の内容はそれぞれ違うと思います)




最初の点滴で抗がん剤を入れて、あとの1週間は

出来るだけ早く体外に排出する為に、ずっと点滴が

続きます。




やむことのない激しい吐き気

24時間ずっと襲ってくる嘔吐
胃液に血が混じる程、吐き続けました。

一切食べ物を受け付けない



苦しみのたうち回りながら

「ああ、生き地獄ってこういう感じだな」と
冷静に感じる自分も居ました・・・




1週間寝たきりで、一切食べず、ほとんど飲まず、

吐き倒し苦しみます。



誰にも見られたくない姿でした。



私の体はどうなるんだろう

どうせ死ぬならこんな治療は

この1回で終わらせたい

1回目の抗がん剤が終わったら

家に帰ろう



そんな事をずっと考えてました。




1週間後に少し体調が戻ったら、

今度は十二指腸潰瘍や、ヘルペス、

口内炎など抵抗力が低下する事で

起こる副作用との戦いです。





こんな厳しい治療はもう止める

こんな治療をするくらいなら
死んだ方がましだ

こんな爆弾みたいな治療をされて
身体が
かわいそうだ。



とずっと考え続けていました。




1回目の抗がん剤から落ち着いた頃に、

ちょうど年末を迎えていましたので、

大晦日から1月3日までは自宅で過ごす事に

なり一時帰宅しました。




大晦日の夜、抗がん剤治療から初めて

シャンプーをしました。



髪が抜ける事は聞いていたけど、

どれ位、どんな風に抜けるかは何も知りませんでした。

徐々に抜けるのか? 

全くわからないし、不安でした。




お風呂から上がって鏡の前でドライヤーを
当てだした私を襲ったのは、激しい頭皮の刺激感でした。




ものすごくヒリヒリして、痛くて、

どうしたらいいかわからなくて・・・

私は鏡を見ながら自分で自分の髪をすべて

むしり抜きました。



少し力を入れて引っ張れば、簡単に

抜け落ちたすべての髪の毛



まさに、オカルトの世界でした。



髪を一人でむしり抜きながら、

私は号泣しました。



先生たちは

「髪は抜けても、また生えてくるから

心配いりません」と言っていました。



そんな先生に対して「怒り」さえ覚えました。

(先生ごめんなさい)



先生の説明は、理屈では理解できても、

あまりにも辛い状況でした。



そして、数日後には、体毛はすべて抜けおちて、

そこから私のニット帽生活が始まりました。





お正月中も

「こんな薬はもういやだ、もうやりたくない」そう

思い続けました。



でも、少し日にちが経過すると、食欲も出てきて、

読書したり、テレビ見たりする元気が出てきました。



ひたすら悩み続けて、考えて考えて考え抜いた

結果私が気付いたのは・・・




私の事を一番励ましてくれているのは、

「私自身の細胞たち」だという事でした。



私は自分の身体が愛おしくなりました。



あんなに激しい爆弾のような薬を大量に入れられて、

強烈なダメージを受けた私の細胞たち



それでも細胞たちは私の中で脈々と
「生きたい、元気になりたい」と

叫んでいました。



私は心の底から、自分の身体全部に

深く感謝すると同時に、

自分の身体の事は裏切れないと
思いました。



「辛くても治療を続けて生きる!」




そう思えるようになりました。





心の声をしっかり聴いて、

身体の声をしっかり聴いて生きる

ていこう

そう深く心に刻み、細胞と共に新しいスタート
を切った私でした・・・




続きは次回に書いていきますね。


最後に・・・
もしも今、抗がん剤治療を検討されている方、抗がん剤治療を
されている方で読んでくださった方が居られたら、私の体験は
もう30年も前の事になります。

あの当時から比べれば医療も進歩しているでしょうから、
私の体験はあくまでも私のものとして受け取って
頂けましたら幸いです。


最後までお読みいただいた皆様に心から感謝
致します。



YUMI





31歳の時、滑膜肉腫の診断を受けてから、
私は1年3か月の入院生活と、
約1年半程の自宅療養を経験しました。




滑膜肉腫は筋肉に出来る悪性腫瘍の一種で、

私の場合は、右足大腿部に出来ましたが、
別の箇所に出来る場合もあるそうです。




症例が少なく、専門医も少なく、

予後もわかりにくい病気です。



病名が判明して、大学病院の専門医を紹介して

もらった私は、早速その専門医の先生の

診察を受けに行きました。



ちょうどその大学病院は、建物が新しくなった

ばかりで、とても快適な空間でした。



紹介して頂いた専門医のT先生は、

穏やかそうで、ゆっくり話す先生で

少し意外な感じがしたのを覚えてます。



「とにかく早く入院して、精密検査をして

手術になりますね」とT先生



その日時点では満床だった為、1週間程の
時間を自宅で療養して過ごしました。



入院を待っていたこの1週間程の時間は

とても長く感じました・・・




病気が私を完全に支配していました・・

恐怖心と治療に対する不安・・・



情けないやら悲しいやら・・・


押し寄せてくる恐怖、不安は

どうしたって消す事が出来ませんでした。


ネガティブな感情ばかりです。


恐怖

不安

後悔の念

自己嫌悪



するとそのうちに、体中に痺れを感じる

ようになって・・・



それは病気の関係とかではなく

あまりの不安と恐怖から感じて

いた痺れでした。



体中の皮膚がぴりぴりして、

本当にどうしようもなかったです。



「私、死ぬんだろうなあ」



「こうやって、入院するのを待ってる間に

 きっと癌は転移するんだろうな」



「自分の生き方が身勝手過ぎたから
 罰が当たったに違いない」



と心底から思ってました。




夜もあまり眠れなくて、告知を受けてから

入院までの期間は寝ていても眠りが浅くて

眠ってるのか、眠っていないのか自分でも

わからないような不思議な感覚がありました。

ずっしり重たい身体
恐れがいっぱいだけれど、妙にふわふわした感覚・・・




そんなある夜、私が13歳の時に亡くなった母が
夢に出てきました。




夢の中の母は、すごく不安そうな

顔で私を見ていました。




そして、私に言いました

「ごめんね・・・」

「ごめんね・・・」


母は何度も私に謝りました。




「お母さんは悪くないのに、どうして

謝るの? 謝らなくていいのに。

私こそごめんね。心配掛けて・・・」



と母に言いながら目が覚めた私は

辛くてベッドの中でひとり号泣しました。




母の夢をみたその翌日に、担当の先生から

電話が入り、入院日が決まりました。




そして入院する直前の明け方・・・



私は眠っているか目覚めているか

わからない様な状態でまどろんでいました。




夢を見ていたような感覚がありました。



夢の中で私はいつものように母の位牌の

ある仏壇の前に座って、手を合わせていました。




すると、天からいきなり強烈な光を放つ金色の

玉?のようなものがすごい速さで降りてきて、
母の位牌の中に吸い込まれたのです。


私はこの時点で完全に目覚めていました・・・
あまりの驚きで目が覚めたのでしょう・・・


位牌の中に吸い込まれたその強烈な光の玉が

今度は私の身体をすっぽりと包みこみました。


私を包みこんだ光は、驚くほどに心地よく、
温かく、無償の愛、永遠の愛の世界が私を包んでいました。






すると、次の瞬間に



天から亡くなった母が降りてきて

金色の光の奥に浮き出てくるように

現れました。



すごく大きくて

すごく美しくて

すごく神々しくて



言葉で表現しきれませんが、本当に凄かった。




母は何も言わずに私の事を優しく見守り、みつめてくれました。

まるで観音様のようでした。

母は、柔らかいシルバーグレーのようなローブを纏っていました。



私は

「お母さん、右足に腫瘍が出来てます」と言って

右足の太ももを押さえました。




母は無言のままで、少し頷いてから
エネルギーで「大丈夫だから安心していて欲しい」
と伝えてくれました。



そしてすっと全てが私の視界から消えた瞬間、
私は号泣しました。

それは、悲しみや寂しさからではありません。


他界した後もずっと私を見守り続けてくれている母
の存在を確信し、感謝の気持ちでいっぱいになった
からです。


その日から私の人生観は大きく変わりました。


肉体は死んでも、魂は死なない

これはやっぱり事実だった。


この体験が私にとてつもないパワーを与えてくれました。


そして・・・天界は愛と光の世界であるということ
をはっきり体感したことは、ずっとずっと私を根底から
支え続けてくれています。



そんなわけで・・・
愛と光のサポートを受けて、私の入院生活が
始まりました・・・31歳の冬の事でした。


続きは次回の私のストーリーに書きますね。



最後まで読んでくださった皆様に心から感謝致します。


YUMI






































 

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